Pb--600 #1正像末和讃 #2夢告讃    正像末和讃   康元二歳[丁巳]二月九日夜   寅時夢に告げていはく (1) 弥陀の本願信ずべし  本願信ずるひとはみな  摂取不捨の利益にて  無上覚をばさとるなり D-- 正像末浄土和讃         愚禿善信集 #2三時讃 (2) 釈迦如来かくれましまして  二千余年になりたまふ  正像の二時はをはりにき  如来の遺弟悲泣せよ P--601 (3) 末法五濁の有情の  行・証かなはぬときなれば  釈迦の遺法ことごとく  竜宮にいりたまひにき (4) 正像末の三時には  弥陀の本願ひろまれり  像季末法のこの世には  諸善竜宮にいりたまふ (5) 『大集経』にときたまふ  この世は第五の五百年  闘諍堅固なるゆゑに  白法隠滞したまへり D-- (6) 数万歳の有情も  果報やうやくおとろへて  二万歳にいたりては  五濁悪世の名をえたり (7) 劫濁のときうつるには  有情やうやく身小なり  五濁悪邪まさるゆゑ  毒蛇・悪竜のごとくなり (8) 無明煩悩しげくして  塵数のごとく遍満す  愛憎違順することは  高峰岳山にことならず P--602 (9) 有情の邪見熾盛にて  叢林棘刺のごとくなり  念仏の信者を疑謗して  破壊瞋毒さかりなり (10) 命濁中夭刹那にて  依正二報滅亡し  背正帰邪まさるゆゑ  横にあだをぞおこしける (11) 末法第五の五百年  この世の一切有情の  如来の悲願を信ぜずは  出離その期はなかるべし D-- (12) 九十五種世をけがす  唯仏一道きよくます  菩提に出到してのみぞ  火宅の利益は自然なる (13) 五濁の時機いたりては  道俗ともにあらそひて  念仏信ずるひとをみて  疑謗破滅さかりなり (14) 菩提をうまじきひとはみな  専修念仏にあだをなす  頓教毀滅のしるしには  生死の大海きはもなし P--603 (15) 正法の時機とおもへども  底下の凡愚となれる身は  清浄真実のこころなし  発菩提心いかがせん (16) 自力聖道の菩提心  こころもことばもおよばれず  常没流転の凡愚は  いかでか発起せしむべき (17) 三恒河沙の諸仏の  出世のみもとにありしとき  大菩提心おこせども  自力かなはで流転せり D-- (18) 像末五濁の世となりて  釈迦の遺教かくれしむ  弥陀の悲願ひろまりて  念仏往生さかりなり (19) 超世無上に摂取し  選択五劫思惟して  光明・寿命の誓願を  大悲の本としたまへり (20) 浄土の大菩提心は  願作仏心をすすめしむ  すなはち願作仏心を  度衆生心となづけたり P--604 (21) 度衆生心といふことは  弥陀智願の回向なり  回向の信楽うるひとは  大般涅槃をさとるなり (22) 如来の回向に帰入して  願作仏心をうるひとは  自力の回向をすてはてて  利益有情はきはもなし (23) 弥陀の智願海水に  他力の信水いりぬれば  真実報土のならひにて  煩悩菩提一味なり D-- (24) 如来二種の回向を  ふかく信ずるひとはみな  等正覚にいたるゆゑ  憶念の心はたえぬなり (25) 弥陀智願の回向の  信楽まことにうるひとは  摂取不捨の利益ゆゑ  等正覚にいたるなり (26) 五十六億七千万  弥勒菩薩はとしをへん  まことの信心うるひとは  このたびさとりをひらくべし P--605 (27) 念仏往生の願により  等正覚にいたるひと  すなはち弥勒におなじくて  大般涅槃をさとるべし (28) 真実信心うるゆゑに  すなはち定聚にいりぬれば  補処の弥勒におなじくて  無上覚をさとるなり (29) 像法のときの智人も  自力の諸教をさしおきて  時機相応の法なれば  念仏門にぞいりたまふ D-- (30) 弥陀の尊号となへつつ  信楽まことにうるひとは  憶念の心つねにして  仏恩報ずるおもひあり (31) 五濁悪世の有情の  選択本願信ずれば  不可称不可説不可思議の  功徳は行者の身にみてり (32) 無碍光仏のみことには  未来の有情利せんとて  大勢至菩薩に  智慧の念仏さづけしむ P--606 (33) 濁世の有情をあはれみて  勢至念仏すすめしむ  信心のひとを摂取して  浄土に帰入せしめけり (34) 釈迦・弥陀の慈悲よりぞ  願作仏心はえしめたる  信心の智慧にいりてこそ  仏恩報ずる身とはなれ (35) 智慧の念仏うることは  法蔵願力のなせるなり  信心の智慧なかりせば  いかでか涅槃をさとらまし D-- (36) 無明長夜の灯炬なり  智眼くらしとかなしむな  生死大海の船筏なり  罪障おもしとなげかざれ (37) 願力無窮にましませば  罪業深重もおもからず  仏智無辺にましませば  散乱放逸もすてられず (38) 如来の作願をたづぬれば  苦悩の有情をすてずして  回向を首としたまひて  大悲心をば成就せり P--607 (39) 真実信心の称名は  弥陀回向の法なれば  不回向となづけてぞ  自力の称念きらはるる (40) 弥陀智願の広海に  凡夫善悪の心水も  帰入しぬればすなはちに  大悲心とぞ転ずなる (41) 造悪このむわが弟子の  邪見放逸さかりにて  末世にわが法破すべしと  『蓮華面経』にときたまふ D-- (42) 念仏誹謗の有情は  阿鼻地獄に堕在して  八万劫中大苦悩  ひまなくうくとぞときたまふ (43) 真実報土の正因を  二尊のみことにたまはりて  正定聚に住すれば  かならず滅度をさとるなり (44) 十方無量の諸仏の  証誠護念のみことにて  自力の大菩提心の  かなはぬほどはしりぬべし P--608 (45) 真実信心うることは  末法濁世にまれなりと  恒沙の諸仏の証誠に  えがたきほどをあらはせり (46) 往相・還相の回向に  まうあはぬ身となりにせば  流転輪廻もきはもなし  苦海の沈淪いかがせん (47) 仏智不思議を信ずれば  正定聚にこそ住しけれ  化生のひとは智慧すぐれ  無上覚をぞさとりける D-- (48) 不思議の仏智を信ずるを  報土の因としたまへり  信心の正因うることは  かたきがなかになほかたし (49) 無始流転の苦をすてて  無上涅槃を期すること  如来二種の回向の  恩徳まことに謝しがたし (50) 報土の信者はおほからず  化土の行者はかずおほし  自力の菩提かなはねば  久遠劫より流転せり P--609 (51) 南無阿弥陀仏の回向の  恩徳広大不思議にて  往相回向の利益には  還相回向に回入せり (52) 往相回向の大慈より  還相回向の大悲をう  如来の回向なかりせば  浄土の菩提はいかがせん (53) 弥陀・観音・大勢至  大願のふねに乗じてぞ  生死のうみにうかみつつ  有情をよばうてのせたまふ D-- (54) 弥陀大悲の誓願を  ふかく信ぜんひとはみな  ねてもさめてもへだてなく  南無阿弥陀仏をとなふべし (55) 聖道門のひとはみな  自力の心をむねとして  他力不思議にいりぬれば  義なきを義とすと信知せり (56) 釈迦の教法ましませど  修すべき有情のなきゆゑに  さとりうるもの末法に  一人もあらじとときたまふ P--610 (57) 三朝浄土の大師等  哀愍摂受したまひて  真実信心すすめしめ  定聚のくらゐにいれしめよ (58) 他力の信心うるひとを  うやまひおほきによろこべば  すなはちわが親友ぞと  教主世尊はほめたまふ (59) 如来大悲の恩徳は  身を粉にしても報ずべし  師主知識の恩徳も  ほねをくだきても謝すべし D--    以上正像末法和讃           五十八首 #2誡疑讃 (60) 不了仏智のしるしには  如来の諸智を疑惑して  罪福信じ善本を  たのめば辺地にとまるなり (61) 仏智の不思議をうたがひて  自力の称念このむゆゑ  辺地懈慢にとどまりて  仏恩報ずるこころなし P--611 (62) 罪福信ずる行者は  仏智の不思議をうたがひて  疑城胎宮にとどまれば  三宝にはなれたてまつる (63) 仏智疑惑のつみにより  懈慢辺地にとまるなり  疑惑のつみのふかきゆゑ  年歳劫数をふるととく (64) 転輪皇の王子の  皇につみをうるゆゑに  金鎖をもちてつなぎつつ  牢獄にいるがごとくなり D-- (65) 自力称名のひとはみな  如来の本願信ぜねば  うたがふつみのふかきゆゑ  七宝の獄にぞいましむる (66) 信心のひとにおとらじと  疑心自力の行者も  如来大悲の恩をしり  称名念仏はげむべし (67) 自力諸善のひとはみな  仏智の不思議をうたがへば  自業自得の道理にて  七宝の獄にぞいりにける P--612 (68) 仏智不思議をうたがひて  善本・徳本たのむひと  辺地懈慢にうまるれば  大慈大悲はえざりけり (69) 本願疑惑の行者には  含花未出のひともあり  或生辺地ときらひつつ  或堕宮胎とすてらるる (70) 如来の諸智を疑惑して  信ぜずながらなほもまた  罪福ふかく信ぜしめ  善本修習すぐれたり D-- (71) 仏智を疑惑するゆゑに  胎生のものは智慧もなし  胎宮にかならずうまるるを  牢獄にいるとたとへたり (72) 七宝の宮殿にうまれては  五百歳のとしをへて  三宝を見聞せざるゆゑ  有情利益はさらになし (73) 辺地七宝の宮殿に  五百歳までいでずして  みづから過咎をなさしめて  もろもろの厄をうくるなり P--613 (74) 罪福ふかく信じつつ  善本修習するひとは  疑心の善人なるゆゑに  方便化土にとまるなり (75) 弥陀の本願信ぜねば  疑惑を帯してうまれつつ  はなはすなはちひらけねば  胎に処するにたとへたり (76) ときに慈氏菩薩の  世尊にまうしたまひけり  何因何縁いかなれば  胎生・化生となづけたる D-- (77) 如来慈氏にのたまはく  疑惑の心をもちながら  善本修するをたのみにて  胎生辺地にとどまれり (78) 仏智疑惑のつみゆゑに  五百歳まで牢獄に  かたくいましめおはします  これを胎生とときたまふ (79) 仏智不思議をうたがひて  罪福信ずる有情は  宮殿にかならずうまるれば  胎生のものとときたまふ P--614 (80) 自力の心をむねとして  不思議の仏智をたのまねば  胎宮にうまれて五百歳  三宝の慈悲にはなれたり (81) 仏智の不思議を疑惑して  罪福信じ善本を  修して浄土をねがふをば  胎生といふとときたまふ (82) 仏智うたがふつみふかし  この心おもひしるならば  くゆるこころをむねとして  仏智の不思議をたのむべし D--   以上二十三首、仏不思議の弥   陀の御ちかひをうたがふつみ   とがをしらせんとあらはせる   なり。 P--615          愚禿善信作 #2聖徳奉讃 皇太子聖徳奉讃 (83) 仏智不思議の誓願を  聖徳皇のめぐみにて  正定聚に帰入して  補処の弥勒のごとくなり (84) 救世観音大菩薩  聖徳皇と示現して  多々のごとくすてずして  阿摩のごとくにそひたまふ D-- (85) 無始よりこのかたこの世まで  聖徳皇のあはれみに  多々のごとくにそひたまひ  阿摩のごとくにおはします (86) 聖徳皇のあはれみて  仏智不思議の誓願に  すすめいれしめたまひてぞ  住正定聚の身となれる (87) 他力の信をえんひとは  仏恩報ぜんためにとて  如来二種の回向を  十方にひとしくひろむべし P--616 (88) 大慈救世聖徳皇  父のごとくにおはします  大悲救世観世音  母のごとくにおはします (89) 久遠劫よりこの世まで  あはれみましますしるしには  仏智不思議につけしめて  善悪・浄穢もなかりけり (90) 和国の教主聖徳皇  広大恩徳謝しがたし  一心に帰命したてまつり  奉讃不退ならしめよ D-- (91) 上宮皇子方便し  和国の有情をあはれみて  如来の悲願を弘宣せり  慶喜奉讃せしむべし (92) 多生曠劫この世まで  あはれみかぶれるこの身なり  一心帰命たえずして  奉讃ひまなくこのむべし (93) 聖徳皇のおあはれみに  護持養育たえずして  如来二種の回向に  すすめいれしめおはします P--617    以上聖徳奉讃           十一首 #2悲歎述懐 愚禿悲歎述懐 (94) 浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし  虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし (95) 外儀のすがたはひとごとに  賢善精進現ぜしむ  貪瞋邪偽おほきゆゑ  奸詐ももはし身にみてり D-- (96) 悪性さらにやめがたし  こころは蛇蝎のごとくなり  修善も雑毒なるゆゑに  虚仮の行とぞなづけたる (97) 無慚無愧のこの身にて  まことのこころはなけれども  弥陀の回向の御名なれば  功徳は十方にみちたまふ (98) 小慈小悲もなき身にて  有情利益はおもふまじ  如来の願船いまさずは  苦海をいかでかわたるべき P--618 (99) 蛇蝎奸詐のこころにて  自力修善はかなふまじ  如来の回向をたのまでは  無慚無愧にてはてぞせん (100) 五濁増のしるしには  この世の道俗ことごとく  外儀は仏教のすがたにて  内心外道を帰敬せり (101) かなしきかなや道俗の  良時・吉日えらばしめ  天神・地祇をあがめつつ  卜占祭祀つとめとす D-- (102) 僧ぞ法師のその御名は  たふときこととききしかど  提婆五邪の法ににて  いやしきものになづけたり (103) 外道・梵士・尼乾志に  こころはかはらぬものとして  如来の法衣をつねにきて  一切鬼神をあがむめり (104) かなしきかなやこのごろの  和国の道俗みなともに  仏教の威儀をもととして  天地の鬼神を尊敬す P--619 (105) 五濁邪悪のしるしには  僧ぞ法師といふ御名を  奴婢僕使になづけてぞ  いやしきものとさだめたる (106) 無戒名字の比丘なれど  末法濁世の世となりて  舎利弗・目連にひとしくて  供養恭敬をすすめしむ (107) 罪業もとよりかたちなし  妄想顛倒のなせるなり  心性もとよりきよけれど  この世はまことのひとぞなき D-- (108) 末法悪世のかなしみは  南都北嶺の仏法者の  輿かく僧達力者法師  高位をもてなす名としたり (109) 仏法あなづるしるしには  比丘・比丘尼を奴婢として  法師・僧徒のたふとさも  僕従ものの名としたり   以上十六首、これは愚禿が   かなしみなげきにして述懐と   したり。この世の本寺本山の   いみじき僧とまうすも法師と P--620   まうすもうきことなり。  釈親鸞これを書く。 #2善光寺讃 (110) 善光寺の如来の  われらをあはれみましまして  なにはのうらにきたります  御名をもしらぬ守屋にて (111) そのときほとほりけとまうしける  疫癘あるいはこのゆゑと  守屋がたぐひはみなともに  ほとほりけとぞまうしける D-- (112) やすくすすめんためにとて  ほとけと守屋がまうすゆゑ  ときの外道みなともに  如来をほとけとさだめたり (113) この世の仏法のひとはみな  守屋がことばをもととして  ほとけとまうすをたのみにて  僧ぞ法師はいやしめり (114) 弓削の守屋の大連  邪見きはまりなきゆゑに  よろづのものをすすめんと  やすくほとけとまうしけり Pa--621   親鸞八十八歳御筆 #2自然法爾章 「獲」の字は、因位のときうるを獲といふ。「得」の字は、果位のときにいた りてうることを得といふなり。「名」の字は、因位のときのなを名といふ。 「号」の字は、果位のときのなを号といふ。「自然」といふは、「自」は、お のづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。 「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来の ちかひにてあるがゆゑに。「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、 しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行 者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきな り。 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちか ひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひ て、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしから んともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上 仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくましま P--622 す。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめす ときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじ めに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。 この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきには あらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義 のあるべし。  これは仏智の不思議にてあるなり。 #1正像末和讃 (115) よしあしの文字をもしらぬひとはみな  まことのこころなりけるを  善悪の字しりがほは  おほそらごとのかたちなり (116) 是非しらず邪正もわかぬ  このみなり  小慈小悲もなけれども  名利に人師をこのむなり           以上